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赤べこの里を訪ねて

民芸収集の旅 その2


赤べこ
赤べこ

12 月中旬。昨年に続き、郷土玩具を年始の挨拶に使用したいと思ってはいたものの、新型コロナウィルスの感染拡大が収まらず、今年は干支の置物を撮影する年賀状は諦めかけていた頃、突然、宮城で撮影の仕事が行われることになりました。これも何かの縁かと思い、その帰り、かねてより気になっていた郷土玩具「赤べこ」の所縁の地を訪ねてみることにしました。





チラチラと雪が舞い散る中、赤べこ伝説の舞台である奥会津は柳津にある福満虚空藏菩薩圓藏寺(ふくまんこくぞうぼさつえんぞうじ)を訪ねました。


【赤べこ伝説】

今から 400 年ほど前、西暦 1611 年に会津地方を襲った大地震で柳津も大きな被害を受け、円藏寺のお堂をはじめ僧舎・民家が倒壊し多くの死者が出たそうです。その後の 1617 年に初めてお堂は現在の巖上に建てられました。本堂再建に使われた木材は只見川の上流の村々からの寄進を受けましたが、川から巖上に運ぶのは大変な労力で、多くの牛が疲労で動けなくなる中、どこからともなく雄壮な赤毛の牛の群れが現れ、木材の運搬を助けたのだそうです。赤毛の牛の群れはお堂の完成を待たずに何処へと姿を消してしまいましたが、木材を運んでくれた牛への感謝の気持ちと労いを込めて境内には「撫牛」が建立され、赤牛の忍耐と力強さにあやかれるよう、この地域では子供に赤牛の人形「赤べこ人形」を送るようになりました。








今回私が柳津で購入した赤べこを制作されていた野沢民芸さんは、伊藤豊さんが創業され、現在では娘さんの早川美奈子(写真)さんも加わり、赤べこをはじめ会津天神、起き上がり小法師などの会津張子や干支張子の他、後継者不足に悩む全国各地の張子やお面なども制作されています。  その土地独特の生活習慣、信仰を反映した玩具だからこそ、その土地で古くから制作されている方々の職を奪ってしまわないように気をつけつつ、また、その郷土玩具が生まれた背景も大切にしながら制作しているのだそうです。突然の訪問にも快く対応してくださり、色々と商品や制作物を見せていただいた中には、東日本大震災および福島第一原子力発電所事故の影響で避難している方々へ送られたという、大熊町のマスコットキャラクター「興き上がりおおちゃん小法師」の姿も。故郷を思う人々の心にかわいらしく寄り添う郷土玩具のあり方は、今も昔も変わらないんだなと感じました。




また、印象に残ったのは、創業当初使用していた伝統的な張子づくりの木型です。大小様々なサイズが存在する木型は、一つひとつが微妙に違った形をしていますがどれも野沢民芸さんの赤べこ特有の愛らしいフォルムはしっかりと守られていることに驚かされます。おそらく、成形をされる職人さんが何百体と作り続けて「このフォルムが一番可愛らしい」という究極の膨らみに行き着いたのでしょう。しかも昔の製法では、1体できれば完成ではなく、張子を制作するごとに木型も少しづつ消耗していくため、何度も何度も同じものを作成する必要があります。それを機械ではなく手作業で行なっていたのだから、労力は途方も無いものだったはずです。 おそらく、現在の成形方法にたどり着いていなければ、赤べこはこんなにも身近なものになっていなかったかもしれません。




「また、春になったら、ぜひおいでになってください」


との優しい言葉に見送られながら、工房を後にした私は、只見川とその上流の村々を見て回ることにしました。雪深いこの奥会津の地を歩いていると、白い雪と墨のような樹々の 2 色で世界ができているように思うことがあります。その中で時折目に飛び込んで来る南天やナナカマドの赤い実には、不思議と愛らしさを感じるのは、今も昔も変わらないはずです。赤べこに至っては、あの独特のフォルム。人気になるわけだと何だか妙に納得しました。









その昔、赤く塗られた玩具は、疫病除けのまじないや子育ての縁起物とされていたそうです。 新しい年の始まり、奥会津の赤べこが新型コロナウィルスから皆さんを守ってくれるよう 願っています。

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